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 VOL.3 ロンドン生活の始まり

 
 1981年4月、私と妻は、ロンドンのヒースロー空港に到着しました。何せ貧乏留学生のことで、飛行機も当時1番安い飛行機を探しました。それはソ連のアエロフロートでした。サービスは悪いのは覚悟していました。でもせめて飛行機はボーイングのジャンボ機並みの大きな飛行機が来ると思っていました。しかしながらその飛行機はせいぜい100人乗りの飛行機(イリューシンでした。この名前を知っている方はかなりの飛行機おたくデス!)。当時はまだロシアではなくソ連邦の時代でした。冷戦の真っ最中でした。
 
 機内ではスチュワーデスよりも、男性のクルーの方が目につきました。半そでワイシャツの下から出ている二の腕は毛むくじゃらで逞しく、どう見ても軍人の手でした。スチュワーデスもがっしりとした、よく言えば頑丈そうな体型ですが、ニコリともしませんでした。飛行機はジャンボのような通路が2つあるタイプではなく真ん中に1つあるだけでした。前の座席を、よくよく見ると鉄製の足がむき出しになっており、ボルトを外すとすぐ輸送機になりそうな、なんとも実用的な、なんとも殺風景な飛行機でした。でも逆にこれならば安全に違いないと思いました。というのは数年前に雑誌で、ソ連の国営空港であるアエロフロートは、そのパイロットは皆かつては空軍のパイロットであり、腕は十分に保証ずみであるもし、緊急事態ても、なんとか無事に着陸できる、それどころかこのイリューシンでも宙返りできるくらい(ウッそー!)の腕の良いパイロットばかりいたというのです。また愛想のないクルーたちでも何か事故があったときには助けてくれるに違いはありません。
 
 料理もひどかったです。茹でたチキンがゴロンとお皿に乗って出てきました。これがロシア料理かということで興味深くいただきました。8時間のフライトの後にモスクワに到着しました。今までいくつかの国を訪れたことがありますが、あの時のモスクワ空港ほど暗く陰湿な空港は見たことがありません。節約のためか薄暗いのです。そしてトランジットでありながら厳重なパスポートチェックがあります。検問所で1列に並ばされ、順番にチェックされます。薄い窓口からは相手の顔はあまり見えません。横には自動小銃を持った兵士がじっとこちらをみています。パスポートを出すと、向こうがじーっとこちらの顔を見ている気配が伝わります。空港のロビーに出てみても全く活気はありません。人々はそれぞれのいすに黙って座り、笑い声やなどは一切聞こえません
 
 さてその後また無事に飛行機に乗り、ロンドンに到着しました。旅行とは異なり、今度は長期滞在ですので、前もって知人を通して、住居を借りておきました。勤務先の病院からは地下鉄で20分くらいロンドンの東の端ハマースミス(訳せば、鍛冶屋町?)というところでした
 
 ハマースミスは今でこそなかなかモダンな街並みですが、当時はあまり明るい街ではありませんでした。ただしハマースミスの駅から歩いてすぐの場所に、有名なダンスホールがありヨーロッパのダンス選手権が行われる所でもありました。テームズ側を越えて反対側にわたると、パブリックスクールがありました。しかし週末などは地下鉄周辺にはパンクの若者が結構ゴロゴロしていて、何も悪いことをするわけではありませんが、あまり気持ちのいうものではありませんでした。
 
 留学前に日本のブリテッシュカウンシルのスカラシップの試験を受け、なんとか合格したので奨学金をもらいました。しかし当時はサッチャー首相の時代で、イギリスは不景気のどん底の時期でした。景気が悪いのでこの額で我慢してくださいと、東京のオフィスの人の良さそうなジェンキンスさんがすまなそうな顔をしていたのをよく覚えています。
 
 実際、住居費と食費にその奨学金はほとんどなくなってしまいました。つまりエンゲル係数はほとんど百%に近かったのです。ただ私もイギリスは2回目でしたし、妻も学生のころにケンブリッジに留学していたので、あまり不安は無く、二人ともイギリスは身近な感じがしました。余談ですが、卒業して以来、こつこつためた貯金を前もってロンドンの銀行に移しておきました。するとなんと、インフレのため普通預金ですら年13%だったのです!! ラッキーでしたが、2年後帰国の2ヶ月前に為替ルートが変わり、プラスマイナスゼロとなりました。 為替レートにはご注意!
 
 なんとが借りることができた部屋は8階建ての1番てっぺんの部屋でした。道の反対側には古い同じような建物が並び、ちょうどピーターパンに出てくるロンドンの街並みのような感じがしました。またテムズ川をビルとビルの間に垣間見ることができました。特に天気の良いときは、ヨットの帆がビルとビルの間から見え隠れし、不思議な気がしたのを今でもはっきりと覚えています。
 
 翌日、留学先の大学の病院へ行きました。ロンドン大学のプロンプト病院の、臨床免疫アレルギー研究室です。留学先をアメリカにするかイギリスにするかという点についてかなり迷いました。アメリカにいった先輩たちから聞くと、向こうでは最先端の研究ができるが、研究室の設備や研究費の額がけた違いに日本より多いので、日本に帰ってからその研究を続けるのがほとんどできないということをよく聴いていました。
 
 私はアメリカほど研究費が豊かでないイギリスがあれば、そこでやった研究は日本でも継続できるに違いない、と考えていました。またもうひとつイギリスを選んだ理由は、イギリスは産業革命の後に、ひどい大気汚染が起こり、喘息をはじめとする呼吸器の病気についての研究、治療喘息治療については世界をリードしてため、留学する価値があると思われました。
 
 というようなわけで、私はロンドンに来たわけですが、実際に始めて担当教授に会うときにはかなり緊張しました。開口1番、教授は、うちの研究室で何をしたいのかと聞いてきました。そこで私は、これこれのことか勉強したいと言いました。すると教授は、今はそのテーマはやっていない。いま若い優秀な何人か研究しているテーマがある。君がそれに参加することを勧めると言われました。あまり気乗りがしなかったのですが今更、帰る訳にもゆかないので、それをやりますと返事をし、私の2年間にわたる留学生活が始まりました。
 
 緊張した第1日目が終わり、グループの仲間が駅はどこかわかるのと、聞かれました。旅行に行くときは必ずつけているダイバーウォッチにつけた小型コンパスを見せて、これがあるから大丈夫というとみんなが大笑いしました。
 
研究室の仲間
 研究生活は臨床の生活よりも単調です。朝8時半時に研究室に行き、夕方6時まで研究します。毎週1回各グループは皆の前で研究成果を発表し、この点について以上の成果が分かったなどと報告し、同時にうまくゆかなかった点も報告し、皆の意見を聞きます。ます。これを非常に参考になりました。自分のやったこときちんとまとめて1週ごとに表現すること、及び経験のある人たちのコメントを聞くことができました。
 
 しかし大学時代ESSのキャプテンをこなし、英語は何とかなると自負していた私も、研究室内における意思の疎通は最初から十分とは言えませんでした。ゆっくりしゃべってくれれば、内容はわかります。しかしながらそれに対しての返事がなかなかやっかいでした。当初は自分の言いたいことを日本語で考え、それをいちいち翻訳していました。
 
 ですから日常会話などは1ワンテンポ以上遅れてしまうのです。昼メシを食いながら皆で雑談をしていても、相手の話の中で、よしこの点が面白い、じゃこれについてしゃべろうと一生懸命、頭の中で文章を組み立ててさてしゃべろうとすると、もうみんなの話は別のところに移ってしまい、乗り遅れてしまうことがほとんどでした。そこで2カ月後には、頭の中で翻訳するのを放棄しました。何かしゃべろうと思ったら、それを翻訳しないですぐ英語でしゃべるのです。最初の2-3週間は惨憺たる結果でした。自分でも信じてられないくらいの間違いがぽろぽろ出てくるのです。人称、時制もめちゃくちゃ、昔英語が得意だった自分が懐かしく思われる(!)ような惨憺たる有り様でした。しかし不思議なことに数週後には、自分で意識しなくても間違いがかなり減ってきました。どうやら頭の中で英語の回路がつながったようでした。キザな言い方をすれば<Think in English> ということでしょうか。
 
 といっても最初の4カ月は西も東も分からず、五里霧中といった状態でした。ちょうどそのころ北海道大学小児科教授の松本修三先生が、学会でのロンドンにお出でになりました。ロンドンに着いたら、会いましょうというありがたいお手紙を頂きました。先生をご招待し、ホームシックがひどくなったら食べようと日本から後生大事に持ってきた冷凍のウナギやらいろいろ用意して、精いっぱいのおもてなしをしながらお話しを伺いました。松本先生も若いころアメリカに留学されていたので、その話が中心となりました。その中で私がいちばん感銘を受けたのは、以下のようなお話しでした。
 
セントアンドリュースにて
 永倉君、君は今ちょうどロンドンに来て4カ月、言葉の問題、研究がなかなかはかどらない、などさまざまな問題を抱えているでしょう。私もそうでした。でも焦ることはありません。留学の目的は何だと思いますか。留学の目的はね、すばらしい研究成果を出したり、英語で論文を書いたり、学会で報告することも大事ですが、もっと大事なことがあります。それは外国から日本見つめ直すことです。日本にいる限り、日本を外から見ることはできません。しかし日本を離れてある期間、外国生活すると、日本を外から見ることができるのです。その時のあなたの感想や考え方が、その後の人生に非常に役に立つのです。ですから決して慌てないで、1日1日の生活を楽しみなさいと言われました。
 
 この話を聞いた瞬間に体がすっと軽くなりました。良い結果をだして、英語で論文を書きたいという願いに押しつぶされそうになっていたときに、このことはまさに天の声でした。不思議なことにその1-2カ月ころからデータがどんどん出るようになりました。
 
 この松本修三先生の話に非常に感銘を受けた私は、帰国後、大学で学生担当になった時、研修医や大学院生の講義の時に、この話をよくしてあげたものです。すべての人に役に立ったとは思いませんが、そのような重圧に押しつぶされそうになった時に思い出してくれたなら、かならず役に立つと私は今でも確信しています。 
  
2014/8/15