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 院長コラム


VOL.2 ロンドン留学準備編(学生時代)および外国生活についての私見

 
 留学を意識したのは、中学生になって英語の授業が始まったときでした。その先生はフルブライト留学生(懐かしいですネ!)。昭和35年ころはまだ自由に海外へ渡航できる時代ではなく、なんと1ドルが360円もしたのです。
 
 その時代にアメリカの留学帰りの美人の英語の先生、と来ればがんばらないわけがありません。授業が終わって時間があると、アメリカの話、特に自分の英語が通じなかったときの話をしてくれるのです。津田塾大の英文科を卒業して、フルブライト試験に合格した先生の英語がアメリカで通じないなんて!! ウッソー! それは面白い話でした。
 英語を勉強して留学する。これが夢でした。ほかの科目は適当にすることがあっても英語だけはがんばりました。
 当時、よい勉強方法が無いので(?)、渋谷の東急文化会館の8階にある名画座よく行きました。120円で二本立ての映画を二回続けて見ました。どうしてかって? 二回目は字幕を読まないで観るためです。
 
 高校の1年のときは一年間にロードショー、名画座あわせて約50本の映画を見ました。またアートシアターで難解なベルイマンなどの作品を見たものです。
 
 さて大学ではESSでした。国内の活動以外にも、海外(主にヨーロッパ)の医学生と連絡を取っていました。前年にイギリス人の医学生が大学に来たこともあって医学部最後の年の夏休みにケンブリッジの病院の放射線科に4週間いました。一ヶ月の見学終了後、日本で購入しておいたユーレイルパス、これでヨーロッパ中のTEE(ヨーロッパの国境を越えて走る国際急行列車)にのれるのです。ただし予約は出来ず、空いた席に座れるというものですが。いわばスカイメイトのヨーロッパ国際急行列車版というものです。これでスペインに行きました。
 
 当時スペインは独裁者のフランコ将軍の統治下にありました。国を近代化、工業化することにより、人々の意識が高まり、民主化を恐れたフランコは観光で外貨を獲得する政策でした。旅行者に対する詐欺や犯罪は厳しく罰せられるため、忘れ物をしても翌日探しに行けばそのままになっているという笑い話さえあったのです。
マドリードではフラメンコが好きだったので、一日に2食に倹約し、そのお金で何回か観に行きました。
 フラメンコについて一言、通常店は夜の8-9時に始まります。色鮮やかなスペインの衣装を着たダンサーが舞台の上でステップを踏みながら、カスタネットを鳴らしたり、フラメンコ独特の手拍子で合いの手を入れます。これらは真夜中12時にころに終わります。ここで観光客の大部分はお帰りになります。明日の観光スケジュールに響きますから。しかし、これからがすごいのです。前半の楽しい雰囲気とはガラッと変り、渋い顔をした黒装束の男性のダンサーとギタリストだけになります。歌の内容は沈痛、悲痛な物ばかり、友との別れ、肉親の死、裏切りなど人生のつらい苦しい面がテーマです。ポルトガルのファドに共通しているところがあるのでしょうか。
 いずれにせよこれが終わるのは真夜中の2時半から3時です。それからおもむろに寝静まったマドリードの町の石畳を歩いてホテルまで帰ります。その間30-40分くらい、きわめて安全です。これもフランコ将軍のおかげだったのでしょう。その後、いろいろな国の首都に滞在しましたが、これほど、今から思うと異様なほど人気の無い、しかも安全な夜の町は歩いたことがありません。
 
 少しは医学的なことをお話しましょう。
Q: 当時、ヨーロッパでもっとも設備とスタッフのそろった小児病院はどこにあったのでしょうか?
A; マドリードです。それは独裁者のフランコが自分の孫のために最高の小児病院を作ったからです。
 
今は、マドリードというと、サッカーのレアル マドリードでしょうかネ!
 
 当時の学生貧乏旅行のバイブルはアメリカで発行されていた一日1ドルシリーズでした。たとえばSpain on 5 $ a day (スペイン一日5ドルの旅)でした。まだ日本にはなかったので、出発前にアメリカに住んでいる親戚に送ってもらいました。この本を頼りに、マドリード、ラココルニャ、バルセロナなどを宛ても無くうろつきました。
 出発前に日本でNHKのスペイン語講座を元に3ヵ月半勉強しました。スペイン語は発音が日本語と似ています。平たく言えばまったく意味も分らずにスペイン語をローマ字式に読むと<お前は何年スペイン語を勉強したのかと、驚かれるほどです。> 
 
 スペイン一日5ドルの旅の本を後生大事に抱え、片言のスペイン語と後はスペインの人たちの人情に助けられて、さまよっていたある日、街角のテレビの前に人だかりがするので一緒に見ていると、なんとそれはドイツで行われていたオリンピックに参加中のイスラエル選手団に対するパレスチナのテロの画面でした。 
 
 当時(昭和47年)の日本ではアラブやパレスチナについての情報は極めて少なく、アメリカから入ってくるイスラエル側、つまりユダヤ人サイドの情報でした。映画でもポール ニュウーマン、エバ マリセイント、サル ミネオ主演の<栄光への脱出、Exodus―――古いなー!> という映画も上演されていました。これはイスラエル建国の話で、イスラエル良いヒト、アラブ悪いヒト! という感じでした。私も第二次大戦中に迫害されて大勢が虐殺され、戦後やっとイスラエルを再び建国したユダヤ人に好感を持っていました。ですからテレビのニュースを見て大いにユダヤ人に同情したものでした。
 
 さて時は変わって平成のこのごろ、パレスチナの問題がイスラエル側ではなくパレスチナ側からも報道されるようになりました。特に、イスラエル兵士により無抵抗で武器も持たない父親と少年が射殺されたショッキングなニュースが全世界に報道されました。
 
 私はアラブ原理主義者のテロには当然反対ですが、パレスチナ問題については以前とは異なった視点で見ています。だれかが言っています<2000年前の土地の所有権が有効ならば、アメリカ合衆国はアメリカインディアンの物だし、イギリスもイタリアの物だ! おせっかいな注:ローマ帝国のシーザーによる、ブリタニア(現在の英国)征服を示す(文献:シーザー著、ガリア戦記)。 さて話がそれましたが、無事にパリで仲間たち、ヨーロッパ各地で勉強した医学生約30名、とパリで集合し、帰国の飛行機に乗りました。一番安い航空会社を選んだので、エジプト航空でした。パリ、カイロ、ボンベイ、バンコック、香港経由の南周りです。えらく時間がかかるのです!
 
 さて、カイロ空港に着きました。トランジットの1-2時間の間に待合室にでも行ってピラミッドのおもちゃでも買おうと思って、タラップを降りかけて、ぎょっとしました。数十メートル先の装甲車の機関銃の銃口がピタリとこちらを向いているのです。例のオリンピックでのテロの直後のため警戒態勢下にあったのです。銃口がこちらを向いているという経験はもちろん初めてです。銃口をこちらに向けている兵士の緊張した顔がはっきり見えます。焼け付くような夏の日差しの下で、背筋がざわざわとしました。節目がちにタラップを降りて空港内に入ると、柱の影に兵士がぞろぞろいるのです。トイレに行こうと一本の柱を曲がったら、あの戦争映画で聞きなれた機関銃に弾のカートリッジを挿入して、弾を装填するあのガッシャという音がすぐ横で聞こえました。ああ昔、戦争映画をいっぱい観ておいてよかった! ここは危ない。君子とパンダ、危うきに近寄らず。回れ右をして、走らないように、すぐ飛行機に戻りました。
 
 無事に国際羽田空港に戻りました。昔は便利でした!
 
 スペイン旅行中に地中海クラブに1週間滞在し、目的であった地中海でスキューバダイビングをしました。あの当時(約30年前)、わざわざスペインくんだりまで来て、タンクを背負って海に潜るなんて酔狂な日本人が来たとばかりに、ずいぶんと面白がられました。このお話は機会があったらまたしましょう。
 
 7月12日に日本を出てから9月3日帰国するまで、誰一人として日本人に会わない、日本語をしゃべらない日々が続きました。たった一人で外国を、お手軽なツアーではなく、旅行するという経験を若いヒトはすべきです。それにより若者の底辺は計り知れなく広がります。便利なツアーは、近年私も利用しますが、年をとってからでよいです。
続編にも出てきますが、留学の大事なポイントの一つは外から日本を見ることです。宇宙飛行士が人工衛星やスペースシャトルから青い地球を眺めて、何かを感じて、その後の人生の何らかの糧となるように、外の世界を知ることが若いヒトに大きな意味を持つのです。
 
 平成15年1月3日の東京新聞にトルシェ監督の話を通訳のダンディーさんが伝えていました。中田の後を追ってヨーロッパに渡った若い選手たちは、技術だけでなく、別の重要なことを学び取っていると。
 
 話がいろいろと飛びました。
次は医師になってから再び訪れた英国における2年間のロンドン生活です。お楽しみに。 
2014/8/15

 
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